サンクコストが新規事業の撤退判断を狂わせる構造的メカニズム
原則

サンクコストが新規事業の撤退判断を狂わせる構造的メカニズム

「これだけ投資したのだから」という心理が、なぜ合理的な撤退判断を不可能にするのか。サンクコスト・バイアスが新規事業の意思決定に与える影響を、行動経済学と組織論の視点から構造的に分析する。

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「これだけ投資したのだから」が、撤退判断を構造的に不可能にする

100社以上の新規事業を観察してきた中で、最も繰り返し目撃する光景がある。明らかに市場が存在しないと誰もが薄々感じながら、「ここまでやったのだから」という言葉一つで場が硬直する会議室の空気だ。サンクコストは論理ではなく、組織の感情と構造によって増幅される。

新規事業の撤退判断において最大の障害は、市場環境でも技術的困難でもない。 「これだけ投資したのだから、やめるわけにはいかない」 という心理的バイアスである。行動経済学ではこれをサンクコスト・バイアス(埋没費用の誤謬)と呼ぶ。

このバイアスは個人の判断力の問題ではない。 日本の大企業に特有の意思決定構造が、バイアスを組織レベルで増幅させている。 稟議制度、人事評価制度、面子の文化が三重の壁となり、合理的な撤退を事実上不可能にしているのだ。

3年間で2億円を投じた新規事業が、なぜやめられなかったのか

ある大手メーカーの新規事業プロジェクトで起きた事例がある。初年度の市場調査では有望と判断され、2年目にプロトタイプを開発、3年目に限定的なテスト販売を実施した。 累計投資額は約2億円。 しかし、テスト販売の結果は惨憺たるものだった。

データが示すのは明確な撤退シグナルだった。顧客獲得コストは計画の4倍、リピート率は目標の15%に対して3%。にもかかわらず、撤退の議論が始まったのはテスト販売から1年後のことである。 「もう少し改善すれば伸びるはず」 という楽観的な見通しが繰り返し語られた。

このプロジェクトに関わった全員が、心のどこかでは「厳しい」と感じていた。しかし、撤退を言い出す人は誰もいなかった。 「自分が言い出せば、2億円を無駄にした責任者になる」 という恐怖が、全員の口を塞いでいたのだ。

サンクコスト・バイアスが新規事業を蝕む3つのメカニズム

メカニズム1:プロスペクト理論による損失回避の増幅

Daniel KahnemanとAmos Tverskyが1979年に発表したプロスペクト理論は、人間が利得よりも損失に対して約2倍強く反応することを実証した。 新規事業の文脈では、この非対称性が撤退判断を歪める。 「撤退して2億円の損失を確定する」痛みは、「継続して回収できるかもしれない」という不確実な期待よりもはるかに大きく感じられる。

厄介なのは、 投資額が増えるほどバイアスが強くなる 点だ。100万円の損失確定なら受け入れられる。2億円となると、心理的に耐えられない。

投資を重ねるほど撤退が困難になる。底なしの悪循環だ。

メカニズム2:エスカレーション・オブ・コミットメント

組織心理学者Barry Stawは1976年の研究で、意思決定者が過去の判断を正当化するために追加投資を続ける傾向を「エスカレーション・オブ・コミットメント」と名づけた。 自分が承認したプロジェクトの失敗は、自分の判断力の否定を意味する。 だから、失敗を認めるよりも追加投資で「正しかった」ことを証明しようとする。

よくある誤解は、これが個人の問題だという見方だ。 稟議書を通した全員がこのバイアスの当事者になる。 部長が承認し、本部長が決裁し、役員が了承したプロジェクトの撤退は、意思決定チェーン全体の判断力を否定することになる。

誰も最初に「やめよう」と言えない構造の完成だ。

メカニズム3:日本企業特有の「面子・稟議・人事評価」の三重構造

欧米企業でもサンクコスト・バイアスは存在する。しかし日本の大企業には、それを増幅する固有の構造が重なっている。

面子の問題がまず立ちはだかる。 新規事業の提案者は社内で「挑戦者」として注目を集める。撤退すれば「挑戦の失敗」として周囲に認識され、提案者のキャリアに傷がつく。

稟議制度も撤退のハードルを上げる。 新規事業の立ち上げに複数の承認者が関与した場合、撤退にも同等以上の合意形成が必要になる。「始める稟議」は通しやすいが、「やめる稟議」は誰も起案したがらない。

そして人事評価制度が、撤退を事実上「罰する」。 合理的な撤退判断であっても「失敗した人」というレッテルを貼られるリスクがある。この構造下では、撤退より延命を選ぶほうが個人にとって合理的な選択になってしまう。

サンクコストの罠を回避する3つの構造的対策

個人の意志力でバイアスに抗おうとしても、構造には勝てない。 仕組みで解決するしかない。 バイアスが作動しても撤退判断が下せる制度を、事前に設計しておく。

対策1:撤退基準の事前設計(プレモーテム・アプローチ)

事業開始前に、撤退基準を定量的に明文化する。 「顧客獲得コストが計画の3倍を超えた場合」「6ヶ月以内にPMFの兆候が確認できない場合」 など、具体的な数値基準を設定し、関係者全員で合意しておく。事前に決めた基準に基づく撤退であれば、「判断の失敗」ではなく「計画通りの意思決定」として処理できる。

対策2:撤退判断の分離(第三者評価委員会)

事業の推進者と撤退の判断者を分離する。 事業に直接関与していない第三者による評価委員会を設置し、定期的にポートフォリオを見直す。感情的なバイアスを構造的に排除する仕組みだ。

対策3:撤退を評価する人事制度の設計

ファーストリテイリングの柳井正氏は『一勝九敗』という著書で、失敗を前提とした経営哲学を語っている。同社は2002年に子会社エフアール・フーズを設立し、SKIPブランドで食品の生産・販売事業に参入したが、会員数の伸び悩みと不採算が続き、2004年に約26億円の損失を出して撤退した。この経験はその後のGU立ち上げなど新規事業の教訓として活かされている。

構造的に重要なのは、撤退を「失敗」ではなく「学習の完了」として評価する仕組みである。 撤退から得られた知見を文書化し、次の事業に活用した場合に人事評価でプラスにする制度設計が有効である。

OYO LIFEの事例も示唆に富む。インドのOYOとヤフー(現LINEヤフー)が合弁で2019年に日本の賃貸住宅市場に参入し、一時は約8,000室を扱うまで急拡大した。しかし稼働率が上がらず不採算が続き、2021年に賃貸事業からの撤退を発表、事業を売却した。 急拡大のための先行投資が回収困難になった 典型例であり、撤退判断の遅延が損失を拡大させた構造が見て取れる。

サンクコストの罠に陥りやすい3つの状況

次の3つのどれかに該当するなら、サンクコスト・バイアスが撤退判断を歪めている可能性が高い。

新規事業の責任者として、投資額が当初計画を大幅に超過しているにもかかわらず「もう少しで成果が出る」と報告し続けている。 データではなく希望に基づいた判断になっていないか、冷静に見直してほしい。

経営層として、複数の新規事業が同時に走っているが、撤退した案件が過去3年間で1件もない。 ゼロは、撤退判断の仕組み自体が機能していない証拠だ。 撤退基準の設計法 で解説しているゾンビ事業の防止策が参考になる。

新規事業推進部門として、KPIが「事業数」や「投資額」で設定されており、撤退がマイナス評価になる。 この設計では、合理的な撤退より不合理な延命が個人にとって最適解になる。

事前に撤退基準を設定し、定期的な第三者レビューを実施し、撤退を学習として評価する制度が整備されている組織には、本記事の緊急度は低い。

明日の会議で「撤退基準」を議題に加えよう

サンクコスト・バイアスを気合いで克服することはできない。 バイアスが作動しても正しい判断が下せる仕組みを、先に作るしかない。

まず、現在進行中の新規事業に「撤退基準」が明文化されているかを確認してほしい。なければ、次回の経営会議で撤退基準の設定を議題に加える。それが最初の一歩だ。 社内ベンチャーの出口戦略 では、撤退を含む4つの出口オプションの設計方法を詳しく解説している。

INNOVATION VOYAGEの 失敗の解剖学 カテゴリでは、新規事業が失敗に至る構造を多角的に分析している。失敗のパターンを知ることこそ、成功確率を上げる最も確実な手段である。


関連するインサイト

用語の定義については「プロダクト・マーケット・フィットとは」も参照。


参考文献

  • Daniel Kahneman & Amos Tversky, “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk,” Econometrica, Vol.47, No.2 (1979)
  • Barry M. Staw, “Knee-Deep in the Big Muddy: A Study of Escalating Commitment to a Chosen Course of Action,” Organizational Behavior and Human Performance, Vol.16, No.1 (1976)
  • 柳井正『一勝九敗』新潮社(2003年)
  • 全国賃貸住宅新聞「OYO、賃貸事業から撤退」(2021年)

INNOVATION VOYAGE 編集部

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