「やっている感」だけが積み上がる組織の病理
イノベーション・シアター(Innovation Theater)とは、企業がイノベーションに取り組んでいるように見せかけながら、実質的な新事業や価値創出にはつながっていない活動を指す。リーンスタートアップの提唱者スティーブ・ブランクが2019年の論文で広く使用した概念である。
社内アクセラレーター、ハッカソン、オープンイノベーション拠点、CVC——多くの大企業がこうした施策を導入しているが、事業化に至る案件は全体の5%未満というデータもある。「応募件数は増えている」「参加者の満足度は高い」といった活動量の指標では好調に見えるが、事業成果で測ると結果が伴っていない。
この乖離に気づきながらも、「文化醸成の段階だから」と自分を説得している担当者は少なくない。問題は個人の努力不足ではなく、活動の設計そのものにある。
見学者200社、事業化ゼロ——拠点運営者の告白
筆者自身、大手企業のオープンイノベーション拠点の立ち上げに関わった経験がある。初年度は企業見学者200社、イベント開催30回、メディア掲載15件という「華々しい」成果を上げた。社内報の表紙を飾り、経営会議でも「成功事例」として報告された。しかし冷静に振り返ると、実際の協業案件はわずか2件、そのうち事業化に至ったものはゼロだった。活動量の数字に酔い、本来の目的を見失っていたのである。
さらに厄介だったのは、この状態を誰も「問題」として認識しなかったことだ。経営層は活動量の報告に満足し、現場は忙しさに追われ、外部パートナーは契約が継続すればそれでよかった。シアターは関係者全員にとって居心地が良い。だからこそ自浄作用が働きにくく、放置されやすい。
シアターから実践へ転換する3つの処方箋
イノベーション・シアターの典型例と、それぞれの脱却策を整理する。
アクセラレーターを「卒業後」まで設計する
応募件数や参加者数ではなく、プログラム卒業後12ヶ月以内の事業化件数をKPIに設定する。卒業後の事業化プロセス(予算確保、チーム組成、意思決定ルート)を事前に明文化し、「プログラム終了=支援終了」の構造を断ち切る。
オープンイノベーション拠点を「ショールーム」から「事業創出拠点」に変える
見学者数やイベント開催数ではなく、具体的な協業案件数と売上貢献をKPIにする。拠点の運営チームに事業開発の権限と予算を付与し、展示場ではなく実行の場として再定義する。
CVCの評価軸を「投資件数」から「シナジー案件数」に変える
投資件数ではなく、本業とのシナジー案件数で評価する。投資先との協業を推進する専任チームを設置し、投資と事業連携を一気通貫で管理する体制を構築する。
5分でできるセルフ診断
明日の業務開始前に、5分でできるセルフ診断を実施してほしい。 まず、自社のイノベーション活動で使われているKPIを3つ書き出す。 そのうち「事業化件数」「売上」「顧客獲得数」のいずれかが含まれているかを確認する。含まれていなければ、活動量偏重の可能性が高い。 次に、過去3年間で事業化に至った案件数を数える。 即答できない場合、追跡する仕組み自体が存在しない。 そして、イノベーション担当者の直近3名の在籍期間を確認する。 平均2年未満であれば、知見の蓄積が困難な構造になっている。この3項目の結果をメモに残し、次回のチームミーティングで共有するだけで、「現状認識の共有」という最初の一歩が踏み出せる。シアターの幕を下ろすきっかけは、意外と小さな問いかけから始まるものである。
この概念を知るべき人、知らなくていい人
この概念を理解することが重要なのは3種類の人だ。
イノベーション推進部門に所属し、活動報告の「見栄え」と実態のギャップに違和感を覚えている人。 その違和感は正しい。シアターという概念を知ることで、問題の構造を言語化し、改善の議論を始められる。
新規事業プログラムの効果測定を任されている企画・管理部門の人。 活動量指標からアウトカム指標への転換を提案する際、シアターの概念は強力な説明ツールになる。
外部パートナーとしてイノベーション支援に携わるコンサルタント・メンター。 自分の支援がクライアントのシアター化に加担していないか、定期的に点検するための判断基準として使える。すでに事業化の実績が継続的に出ている組織や、アウトカム指標を導入済みの企業には、この概念の緊急性は低い。
次の報告資料に「事業化件数」の欄を1つ加えよう
イノベーション・シアターから抜け出すための最初のアクションは明確である。次回のイノベーション活動の報告資料に、「事業化件数」という項目を1つ追加することだ。数字がゼロであっても構わない。重要なのは、事業成果を可視化する仕組みを組織に埋め込むことである。
ゼロという数字が経営層の目に触れれば、「なぜゼロなのか」という議論が自然に始まる。それがシアターの幕を下ろす起点になる。
さらに深く知りたければ、INNOVATION VOYAGEの関連記事「イノベーション・シアター:見せかけの新規事業推進が組織を蝕むメカニズム」を合わせて読んでほしい。背景にある組織のメカニズムと、より具体的な脱却策を解説している。
構造の問題は、構造を見抜く目を持つことから解決が始まる。
参考文献
- Steve Blank, “Why Companies Do ‘Innovation Theater’ Instead of Actual Innovation,” Harvard Business Review (2019)
- Clayton M. Christensen, The Innovator’s Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail, Harvard Business School Press (1997)(邦訳:『イノベーションのジレンマ』翔泳社)
- 経済産業省「日本企業における価値創造マネジメントに関する行動指針」(2024年)