知識が「資産」ではなく「武器」になるとき
ナレッジマネジメントの理論は、組織内の知識を「共有・活用すべき資産」として位置づける。しかし実際の組織では、知識はしばしば「権力の源泉」として機能する。
この非対称性を最初に体系化したのは、経営学者のジェフリー・フェファーだ。フェファーは『組織と権力』(1981年)の中で、組織内の権力は希少な資源の管理から生まれると論じた。特定の専門知識を独占する個人や部門は、その知識を必要とする他者に対して交渉上の優位性を持つ。逆に言えば、知識を共有することは自らの「不可欠性」を希薄化させるリスクを持つ。
この権力力学が大企業の中で作用すると、部門間の知識移転は「コスト」として処理され、囲い込みが合理的な行動になる。
ゼロックスPARCの知識流出と活用失敗
ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)は1970年代から80年代にかけて、グラフィカルユーザーインターフェース、イーサネット、レーザープリンター、オブジェクト指向プログラミングなど、後のコンピューティング産業の基盤となる技術を生み出した。
しかしPARCで開発された技術の多くは、ゼロックス本体の事業として商業化されなかった。最も著名な事例は、スティーブ・ジョブズがPARCを訪問した1979年にグラフィカルインターフェースの原型を見て、それをApple LisaおよびMacintoshに実装したことだ。
この知識の「外部活用、内部死蔵」が生じた背景には複数の要因があるが、PARCと本社(コネチカット州スタンフォード)の地理的・文化的断絶が大きな要因の一つとして分析されている。研究者たちはゼロックス本社のコピー機事業の論理で動くマネジメント層と知識を接続する構造的なメカニズムを欠いていた。
これは「知識の存在」と「知識の組織内流通」が別問題であることを示す典型事例だ。
日本型人事制度における「専門性の囲い込み」
日本の大企業における専門職制度は、知識囲い込みの温床を制度的に作ってきた側面がある。
1990年代から2000年代にかけて多くの日本企業が導入した「専門職コース」は、管理職コースとは別の昇進ルートとして、技術・法務・財務などの専門知識を持つ人材のキャリアを設計するものだった。この設計自体は合理的だが、副作用として「専門知識は専門職が持つもの」という組織規範が形成され、知識の部門間流動が制度的に制限される結果が生じた。
新規事業開発が必要とする知識は往々にして「技術×市場×規制×財務×顧客インサイト」の横断的結合だ。それぞれが別の専門職集団に囲い込まれている状況では、結合の場そのものが生まれない。
NTT、日立、トヨタなど、複数の大企業が2010年代以降に推進した「部門横断型新規事業開発プログラム」の多くが、この知識囲い込み問題に直面した。参加者を集めることはできても、彼らが持つ知識を本業の部門から切り離して「持ち出す」ことへの障壁——情報セキュリティ上の制約、本業への影響懸念、共有することへの個人的なリスク意識——が実際の知識流通を制限した。
ウェンガーの実践コミュニティ理論と限界
エティエンヌ・ウェンガーが提唱した「実践コミュニティ(Community of Practice: CoP)」は、形式的な組織構造とは別に、共通の実践を持つ人々が自発的に知識を共有するコミュニティを形成するという概念だ(Wenger, 1998, 『実践コミュニティ』)。
IBMやシェルなどの大企業がCoPを制度化した取り組みは、知識移転の促進に一定の成果を上げた。シェルでは地質学者のCoP(地下資源探索に関する実践コミュニティ)が、異なる油田プロジェクト間で現場知識を共有するメカニズムとして機能した事例が記録されている。
しかし制度化されたCoPが直面する問題がある。参加が業績評価の対象にならない場合、時間的な制約から「本業優先」が規範として定着し、CoPへの参加はオプショナルな活動になる。知識共有のコスト(自分の時間・専門性の開示)を補償するインセンティブがなければ、形式的な参加と実質的な囲い込みが共存する。
「吸収能力」が移転の前提になる
コーエンとレヴィンタール(1990年)が提唱した「吸収能力(Absorptive Capacity)」概念は、知識移転問題のもう一つの次元を示す。
組織が外部(または他部門)の知識を活用する能力は、関連する知識の事前蓄積に依存する。つまり「受け取る側の知識基盤」がなければ、知識を共有しても活用されない。
新規事業チームが市場インサイトを必要としても、そのインサイトを提供する顧客研究部門の「言語」と「視点」を理解していなければ、情報は渡っても知識は移転しない。この「吸収能力のギャップ」は、単なる情報共有ツールの導入では解決できない。人材の物理的な交差——ジョブローテーション、短期プロジェクト参画、メンタリング——によって初めて埋まる。
知識移転のインセンティブを設計する
知識囲い込みを生む根本的なインセンティブ(知識保有による権力維持)を変えずに、「情報共有ツール」だけを導入しても問題は解決しない。
必要なのは、知識を共有することの「コストの補償」だ。具体的には、知識を共有・提供した個人・部門の評価指標に「知識貢献」を組み込む設計——他部門プロジェクトへの貢献度、育成した後継者の数、横断プロジェクトでの役割——が構造的な補償として機能しうる。
製造業では、国際拠点間での技術者の短期相互派遣が、製造技術の移転と吸収能力の同時形成を促す実践として広がってきた。トヨタが体系化した「横展開(Yokoten)」——ある工場での改善成果を他工場へ物理的に移植するプロセス——は、マニュアルだけでは伝達できない暗黙知を人の移動によって移植する構造として機能する。人が動くことで知識が移動するというシンプルな原則だが、その実行コストは無視できない。
知識囲い込みの解消は、情報システムの問題ではなく人事設計と評価設計の問題として位置づけなければ、根本から対処できない。
荒井宏之 / INNOVATION VOYAGE
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