「全部やる」モデルという逆選択——事業部制イノベーションが優秀人材を排除する構造

「全部やる」モデルという逆選択——事業部制イノベーションが優秀人材を排除する構造

既存事業と新規事業を同一の事業部に担わせ「全部やれ」という組織設計は、なぜイノベーションに適した人材を系統的に排除するのか。逆選択という経済学概念から大企業イノベーションの人材問題を解剖する。

逆選択 事業部制 イノベーション人材 組織設計 人事制度

「優秀な人材に新規事業も任せる」という致命的な思い込み

大企業のイノベーション戦略を診察すると、ほぼ必ずと言っていいほど同じ処方箋に出会う。「既存事業部の中にイノベーション担当を置き、優秀な人材が既存と新規の両方を担う」というモデルだ。

表面上は合理的に見える。優秀な人材に多くを任せる。既存事業の知見と新規事業の探索を一体運営することで、組織の一体感を保つ。部門を増やさなくて済む。

しかしこのモデルは、経済学が「逆選択(Adverse Selection)」と呼ぶメカニズムを通じて、イノベーションに必要な人材を系統的に排除する。

「全部やる」という設計が、「全部やれる人材」だけを残し、「ゼロイチに特化した人材」を追い出す。 これが、大企業のイノベーション人材問題の根本構造だ。

逆選択とは何か

ジョージ・アカロフが1970年の論文「レモンの市場」で定式化した逆選択(Adverse Selection)は、情報の非対称性が市場参加者の構成を歪める現象だ。

古典的な例:中古車市場では、売り手は車の品質を知っているが買い手は知らない。買い手は平均品質を想定して「平均価格」を提示する。すると品質の高い車(良い車)の売り手は「安すぎる」と感じて市場から退出し、品質の低い車(レモン)の売り手だけが残る。買い手の「平均価格」の設定が、意図せずして悪い選択肢だけを残す——これが逆選択だ。

大企業の事業部制イノベーションでも、これと同様のメカニズムが働く。

事業部制が生む逆選択のメカニズム

設定:評価制度が「既存事業最適化」に向けて設計されている

事業部のP&L管理と四半期評価は、既存事業の最適化を得意とする人材を高く評価する。売上向上、コスト削減、品質改善——これらの成果は短期間で可視化され、評価に直結する。

一方、新規事業の探索は成果が見えにくく、評価時点では「数字のない活動」として映ることが多い。

誰が「全部やれ」という環境に留まるか

この評価制度の下で、「新規事業にも情熱を持つ優秀な人材」に残された選択肢は二つだ。

留まって、既存事業の評価に最適化しながら余力で新規事業に取り組む。しかし評価は既存事業で決まるため、新規事業への傾倒はリスクになる。合理的な行動として、新規事業への注力を自ら絞ることになる。

もうひとつは、出ること。スタートアップへの転職、あるいは起業。新規事業に特化した環境で全力を出せる。

新規事業への情熱が高く、かつ市場価値の高い人材ほど、後者を選ぶ。 外の市場で機会を見つけやすいからだ。

結果として、組織に残るのは「既存事業の最適化に適した人材」と「外部の選択肢を持たない人材」になる。これが逆選択だ。

逆選択が完了した組織の特徴

逆選択が進んだ事業部は、見た目は「優秀な人材が揃っている」状態に見える。既存事業の指標は安定し、業務遂行能力は高い。しかし「ゼロイチを生む能力」という文脈では、人材の構成が組織的に偏っている。

「うちはイノベーション人材がいない」と嘆く大企業の多くは、人材がいないのではなく、設計によって人材を排除してきた結果がある。

「全部やれ」が前提とする不可能な人材像

「全部やれ」モデルが想定する人材は、既存事業の最適化と新規事業の探索を同時にこなせる存在だ。しかしこの二つは、必要とするスキルセット・時間軸・意思決定スタイルが根本的に異なる。

既存事業の最適化が求めるもの: 高い実行精度、リスク最小化、既存の枠組みの中での改善、短期的な成果の追求、組織内の政治的調整。

新規事業の探索が求めるもの: 高い不確実性への耐性、仮説の設定と検証、既存の枠組みを疑う視点、中長期的な学習への投資、組織の論理からの自由。

この二つを完全に兼ね備えた人材は存在しないわけではないが、著しく稀だ。そして稀な人材に依存する戦略は、スケールしない。

「全部やれる人材を見つける」ではなく、「全部やらなくていい設計を作る」——これが、人材問題の本当の解決策だ。

「全部やれ」から「棲み分ける」設計への転換

逆選択を防ぐための設計原則は、明確だ。

原則1:組織を分ける。 既存事業の最適化と新規事業の探索を、別の組織・別の評価制度・別のキャリアパスで運営する。同じP&Lに乗せない。同じ評価基準で評価しない。

これはチャールズ・オライリーらが「両利きの経営」で提唱した構造的分離(Structural Separation)の概念と重なる。ただし分離しただけでは不十分で、経営トップが両者を統合する役割を担うことが不可欠だ。

原則2:評価制度を変える。 新規事業担当者の評価基準を、明示的に既存事業とは別に設計する。「仮説検証の質」「学習の速度」「顧客接点の数」——探索フェーズに適した指標で評価する。

原則3:キャリアパスを設計する。 新規事業部門での経験が、その後のキャリアにとってプラスになる設計を作る。「新規事業を経験した人材は役員候補」という明示的なシグナルが、逆選択を抑制する。

原則4:外部採用とのポートフォリオ。 社内でのキャリア形成者と、スタートアップ経験者・起業経験者の外部採用を組み合わせる。単一のキャリア経路から逆選択が生じやすい人材プールを多様化する。

構造の変更が唯一の解法

「もっと意欲のある人材がいれば」「経営層の理解が深まれば」——イノベーション人材問題はしばしばこのような言い方で語られる。しかしこれは誤診だ。

問題は人材の質でも経営層の意識でもなく、設計だ。

逆選択は情報の非対称性と制度の設計によって生まれる。制度を変えなければ逆選択は止まらない。制度を変えれば、同じ人材から異なる行動が生まれる。

「全部やれ」という設計の組織は、意図せずして、最もイノベーションを必要としている人材を排除し続ける。この構造的欠陥に気づかない限り、「優秀な人材がいない」という嘆きは永遠に繰り返される。

孤立する社内起業家の問題については、孤立するイノベーター——組織の境界で消耗する社内起業家の構造的問題で詳述している。組織設計の観点から合わせて読むことで、人材問題の構造的理解が深まる。


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参考文献

  • Akerlof, G. A. “The Market for ‘Lemons’: Quality Uncertainty and the Market Mechanism,” Quarterly Journal of Economics, Vol.84, No.3, pp.488-500 (1970)
  • O’Reilly, C. A. & Tushman, M. L. Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma, Stanford Business Books (2016)
  • Katz, R. & Allen, T. J. “Investigating the Not Invented Here (NIH) Syndrome,” R&D Management, Vol.12, No.1, pp.7-19 (1982)
  • Burgelman, R. A. & Sayles, L. R. Inside Corporate Innovation, Free Press (1986)

INNOVATION VOYAGE 編集部

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