なぜ「明らかに死んでいる」事業が続くのか
現場の誰もが「もう無理だ」と思っている。顧客はいない。資金は減っている。担当者は疲弊している。それでも事業は止まらない。次の四半期のレビューまで、あるいは次の人事異動まで、「様子を見る」という決定が繰り返される。
撤退遅延の表面的な説明は「サンクコストの罠」だ。すでに投じたコストを回収したいという心理が、追加投資を正当化し続けるという議論はよく知られている。Barry Staw が1976年にOrganizational Behavior and Human Performance で発表した「Knee-Deep in the Big Muddy」は、このメカニズムを実験的に示した古典だ。自分が意思決定に関与した過去の投資ほど、失敗が明らかになった後も追加資源を投じやすいことを、実験参加者の行動データで証明した。
しかし実際の企業において撤退を困難にしているのは、サンクコストの罠だけではない。より深い層に、組織政治の力学がある。
「誰の案件か」が撤退を不可能にする
新規事業は、多くの場合、特定の人物のイニシアティブで始まる。経営幹部が「これで行こう」と言い、予算がつき、組織が動いた。その幹部がまだ在席している場合、部下が「この事業はもう止めるべきだ」と主張することのコストは極めて高い。
撤退の提言は、推進決定の誤りを問うことに等しい。それは上長を批判することであり、組織のヒエラルキーを揺るがす行為だ。「正しい意見を持っていること」よりも「誰と関係を壊さないか」が優先される組織では、撤退の声は上に届かない前にフィルタリングされる。
これはモラルの問題ではない。評価制度の問題だ。「率直に問題を報告した社員」と「問題を抱えつつも上長の意向に沿った社員」のどちらが評価されるかという問いに、前者だと答える組織は理念の上では多いが、実際の評価・昇進の実績がそれを裏づけている組織は少ない。
「個人の判断」から「組織の決定」への遷移
事業が始まった直後は「誰かの案」だが、時間が経つと「組織の決定」に変換される。予算計画に組み込まれ、人事評価の対象になり、取引先との関係が生まれ、社外に対して「うちはこれをやっている」と表明されると、撤退は「路線変更」から「失敗の公認」に変わる。
外部への発表があった事業は特に難しい。プレスリリースが出て、メディアに掲載され、投資家への決算説明資料に記載されると、撤退は対外的な信用問題を伴う。「なぜ発表した事業を2年で止めたのか」という問いに答える準備が必要になる。この準備コストを恐れるために、撤退判断が先送りされる。
実態としては、撤退を2年遅らせることで失う機会コストや追加損失の方が、対外説明コストをはるかに上回ることが多い。しかし「説明しにくい失敗」は、「数字に出る損失」よりも回避したい心理的ハードルが高い。
「撤退推進派」が組織内で孤立する構造
撤退の必要性を最も強く感じているのは、事業の現場に近い人間だ。担当チームのメンバー、直接の顧客折衝を担当している人間、週次の数字を見ている人間——彼らは撤退の必要性を最も早く、最も正確に判断できる立場にいる。
しかし彼らが撤退を主張したとき、組織の反応はしばしば冷淡だ。「まだやり切っていない」「もっと顧客に当たれ」「ピボットを考えたのか」——これらは建設的なフィードバックに聞こえるが、実態は「撤退提言の棄却」だ。撤退提言を続ける担当者は、「粘り強さが足りない」「すぐ諦める人間」というレッテルを貼られるリスクを負う。
結果として、現場は撤退すべきと思いながら「もう一度頑張る」姿勢を演じ続ける。事業の実態と公式レポートの乖離が拡大し、問題の把握がさらに遅れる。
撤退判断を「経営判断」にする設計
撤退遅延を防ぐためには、「誰かが勇気を出して言う」という個人の問題に依存しない設計が必要だ。
事前定義の撤退トリガーを設ける(Exit Criteria)。 事業開始時に「どの指標が何の水準を下回ったら撤退を検討するか」をあらかじめ合意しておく。KPIの未達が撤退トリガーに該当すれば、「撤退すべきでは」という提言は個人の意見ではなく、事前合意したルールの適用になる。これにより、撤退の議題化のコストが下がる。
スポンサーシップを複数化する。 一人の経営幹部だけが事業の守護者になる構造を避け、複数人のスポンサーが関与する体制を作る。単独スポンサーが異動・退職した場合、事業は「孤児」になり、あるいは後任者が「自分の決定ではない」ために積極的に推進も撤退もしない状態になる。複数スポンサーは、こうした権力集中の問題を分散させる。
撤退経験を「学習資産」として評価する。 「失敗した事業を止めた」という実績をネガティブに評価しない文化を意図的に醸成する。これは「失敗を推奨する」ということではなく、「正確な判断をした」ことを評価するということだ。3年引っ張った末に撤退した事業よりも、1年で明確に判断して撤退した事業の方が、資源効率は高い。
「潔い撤退」は戦略能力である
撤退は失敗ではなく、判断だ。どの仮説検証が失敗したかを明確にし、学びを記録し、次の仮説設計に反映させる撤退は、イノベーションの重要な構成要素だ。
逆に、撤退判断が遅れ続ける組織は、探索のポートフォリオを管理できない。「死んでいる事業に資源が滞留する」という状態は、新しい事業に投じられるはずだった資金と人材が失われ続けることを意味する。
撤退の政治を変えるためには、評価制度の設計変更が必要だ。「続けた」ことではなく「正確に判断した」ことを評価する軸を持てるかどうかが、新規事業ポートフォリオの健全性を左右する。
関連するインサイト
参考文献
- Barry M. Staw, “Knee-Deep in the Big Muddy: A Study of Escalating Commitment to a Chosen Course of Action,” Organizational Behavior and Human Performance, Vol. 16, Issue 1 (1976), pp. 27–44
- Barry M. Staw & Jerry Ross, “Knowing When to Pull the Plug,” Harvard Business Review (March–April 1987)
- Daniel Kahneman, Thinking, Fast and Slow, Farrar, Straus and Giroux (2011)(邦訳:『ファスト&スロー』早川書房)
- Rita McGrath, “Failing by Design,” Harvard Business Review (April 2011)
荒井宏之 / INNOVATION VOYAGE
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